『いない(いる)いらない』について

『いない(いる)いらない』という作品についての振り返りです。Mr.daydreamer#5として、21年7月に上演されました。
<記録映像>
<脚本販売ページ>
<作品詳細>


 今作のスタートは、もう1年以上脚本を書いていなかった私に向けられた、「そろそろ書いてよ」というオーダー(締め切り付き)だった。振り返ってみると、執筆のきっかけはいつだって締め切りである。「締め切りはクリエイターを強くする」と常々言われるけれど、さすがに私は締め切り依存すぎる。怠惰だ。
 あまりにも筆が重かったのは、「書きたいことがぜんぜんない」からだった。ここ1年くらい、寒天の中に閉じ込められているように思考も環境も停滞している。ふと周囲を見渡してみても、コロナの時期からぱたりと活動を止めている人・団体がちらほらいる。みんな何して生きてますか? そもそも生きてます? 別に仲も良くないし、こうやってふと思い出さない限り存在まるごと忘れている、私の声は届かない、だってそもそも声を発していない。そうやってみんな沈んでいくんだろうなあ。最近は、「人気になる」とか「必要とされる」とか、考えないようにしている。みんながみんな、自分のことに必死なこの日々で、自らの存在を他者に依存できないから。私(団体)は、自身の内的な対話によって、自らの在り方を定義し、自ら外側に手を伸ばしていく必要があるんだろう、と思う。「別に必要とされていないけど、私はここにいたほうがいい」、そう嘯いて、裸足で立つ。

 ……話が明後日のほうに行ってしまった。そう、書きたいことが一切合切思いつかなかったので、そのまんま「停滞」とか「無関心」について書こうと思ったのだ。さっきまでの話と矛盾するけれど、停滞する日々の中で、やっぱり私には欲がある。「死にたい」とつぶやく回数と同じだけ、コンビニで甘いものを買っている。それは絶望的に気持ち悪いことだが、生きるってそうだよな、とも思う。執筆用ノートには、「”興味がない”世界で、存在し、必要とすることについての話」と書きつけてある。『いない(いる)いらない』というタイトルはその一文から作った。「居る」と「要る」。「愛」という単語は作中で連呼されるものの、別にそこに意味はない。中身がスッカスカ、もしくはあらゆる定義が渦巻いている。

 演出は他者に任せられることがあらかじめ決まっていたので、脚本自体は好き放題に書いた。それはもう、演出にケンカを売っているくらいに。モチーフの主軸に置いたのは、アイデアメモに残っていた、「穴を掘る子穴を掘る子」という言葉だ。これをいつどうしてメモしたのか、まったく思い出せない。なんで2回繰り返してあるんだろう? たぶん2つ目のほうをちょっと書き換えようとして忘れてたのかな。(このメモはほんとに意味不明な言葉が多い、「廃棄恵方巻」とか「デパコスの袋持ったブス」とか、謎。)穴のモチーフは予想していた以上に深みがあり、稽古場でもおもしろい思考につながっていった。結局1本しか書けなかった(ごめんなさい)、<稽古場レポート>に残している。
 問題の「西日本沈没」は、取り扱うかすごく悩んだし、上手く書けている自信は今でもない。明らかに東日本大震災を連想させながら、扱いがひどく粗雑に思えたひともいたかもしれない。(お叱りの言葉を受けることも覚悟の上だった)ただ、やはり完全なフィクションに振り切ることはできなかった。それは現実と地続きの言葉を書きたいと私が思っているからでもあるし、「緊急事態宣言」とか「ソーシャルディスタンス」とか「濃厚接触者」とか、数年前の私に聞かせたらその陳腐さにゲラゲラ笑ってしまうような言葉が漂っているこの時代をどうしても無視できなかった、からでもある。あまりにも大きな悲劇は、いつだって少し可笑しい。東日本大震災当時、残酷な中学生だった私は、膨大な命が失われていく様を笑っていた。非日常なニュースに、友だちと塾の机に腰掛け興奮しながら喋っていたときの、床がきしむ音を今でも思い出す。(その数年後、塾長が急逝し、たった一つの死で私は心を壊すのだけれど。)福岡で上演されることが決まっていたので、観ていると足元が沈んでいく感覚があればいいな、とも思った。ただ、やっぱり他の土地でやるとなるとこのままの脚本では無理だ。そういう意味で、私の作品には強度がまだ足りない。
 裏目標として「性」の要素をできるだけ排す、というものもあった。”ルル”と”ケイ”の二人は、第一稿時点では、男の子でも女の子でもどちらでも成立するように書いた(つもり)。執筆中にキャスティングの方針が決まったので、最終稿は女の子にグッと寄せているが、男の子バージョンでもいつかやってみたいなあ。というか、今後は、あんまり性別に寄って物事を考えたくない。自分の思考が性差の偏見にずぶずぶに浸ってしまっているように感じる。前作の『ありふれた白にいたるまでの青』は開き直ってド偏見で書ききったけれど、そこから離れたものも取り扱えるようになりたい。こういうのって、やっぱり勉強なのかな。普段の生活の延長で書いていると限界があるかもしれない。”野々村”の気持ち悪さを書けたことも、満足はしているが、それでよかったのか?とも思っている。そろそろ性に対する己の偏見について腰を据えて考えないと、作家として足をすくわれる気がする。
 ……モチーフについて書いていくとキリがないので、このあたりに。普段、自分の作品は「私小説的なフィクション」と表現できるけれど、今回は「寓話にみせかけた私小説」に近い新しいアプローチができたように思う。自分の話をするのがあまりにも恐ろしいので、自分が演出までやるとなると、脚本時点で自分の話をするのがマヂ無理、となってしまう。その点、今作は演出を他者に委ねる以上、最終的な上演は自分の話ではなくなることがわかっていたので、脚本時点で恐れることなく自分の話をすることができた。書いているときも、演劇としての絵はまったく想定していない。(それはそれでどうなんだと思うけど)登場人物たちも、あまり人間の形をしていなかった。ルルとケイもガチャピンとムックみたいな造形でやってもらってぜんぜん大丈夫。いろんな人に言われたが、この脚本のアウトプットは、演劇でなくともいいと思う。アニメーション、実写映画、写真集とかね。機会があればそういうのもやってみたい。あわせて、”演劇”の脚本であることとは何か、きちんと問うていきたい気持ちもある。

 あともうひとつ脚本について話をするんだったら、「悲しみ」についてだと思う。悲劇をやる劇団にいる以上、悲しみについては延々と考えている。いつも、「なんでそんなに悲しい(難しい)(重い)作品ばっかりやんの?」と尋ねられるたびにウワーッッと叫んで逃げ出したくなる。エンタメ・コメディやってなくてごめんなさい! 「お客さんを元気にしたい」とか言えなくてごめんなさい! 発狂しそうだ。部屋の隅つついて絶望をほじくり返しているような日々だ。開き直ってしまえば、たぶん悲しいことについて考えられる自分はとても贅沢なんだろうと思う。そう、悲しいことを考えるのって、趣味なんですわ。本当に疲れている人は悲劇を欲していない。きっと私もギリギリまで追い込まれたら、悲しいことを考えなくなるんだろうと思う。それがすごく悲しい。

 演出は、単純に「すげ〜」と思った。だって人の形をしていないものたちがウゾウゾと動いている、くらいのイメージでしか書いてなかったテキストが、きちんと裏付けをともなって物理的な舞台として成立しているんだもん。#5のアウトプットとして、大満足だった。キャスティングも良かったよね。3人の役者さんはもちろん、野々村をキャスティングしないという判断含めてすごく良かった。稽古に入ってからは、私自身も制作・美術という役目があってアタフタとしていたけれど、本番は毎公演オペ席でボロボロ泣いていた。「演出を他者に任せる(かつ自分も稽古場に居続ける)」というやり方は、やっぱり時々難しいこともあるけれど、個人的に好きな関わり方ではある。しばらくはこんな感じでいこう、と思っている。

 最後に自分の話をすると、最近はとても疲れている。やりたいことがないこととか、ちゃんと勉強してないこととか、物事をそれなりにこなしていることとか、諦めることばかりが上手になることとか、尊敬している人とか影響を受けた作品がなーんにも思いつかないこととかに、すごく引け目がある。そういうのって、たぶん自分で自分にかけた呪いなんだろう。

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