「ありふれた白にいたるまでの青」という作品についての振り返りです。福岡学生演劇祭2019・全国学生演劇祭に出場しました。
脚本は電子書籍になってます。<商品ページ>
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演劇祭について、振り返りをしておいたほうがいいんだろうな、と思いつつ、私的な文章を書くのが苦手すぎてここまで放っておいてしまった。最近は自分で書いた長文を読み返すと鼻について仕方がない。稚拙だ、大仰だ、自分のことしか見えてないガキだ。そんなこんなでSNSもうまくいかない。それっぽい写真と半角カタカナで添える単語でなんとかなる気がしている、多分見る側だってそっちの方が楽だろう、あなた方の主観で勝手に読み替えていただければそれで結構です、はい、どうせTLという濁流に飲み込まれるだけなので。と、言葉にすることに対してひねくれた感情を抱いていたところ、「言葉にしないとわからないよ」と至極まっとうなフィードバックを私に向けてくれる人が増えた。私は孤独に従順すぎるあまり、私の代わりに怒ったり心配したりしてくれる人がいると物陰から急に飛び出してきたように感じて驚いてしまう。ありがとう。大事な他人のこと、忘れないようにこれからも気をつけます。
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演劇祭、出場して本当によかった。ここできちんと言葉にしておく。
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演劇祭の講評、何度も読み返し、自分の血肉にすべく咀嚼しているのだけれど、「作家の苦悩」という部分だけが、まるで他人の話のような気がしてしまうのはなんでだろう。おそらく今回の脚本、「ジェンダー論」とか「女性の搾取」とかいう問題意識が土台にあるんだろうなあと思っている。もやっとした書き方をしてしまうのは、そんな問題意識、私はこれまで一度だって自分事として抱いたことがないからだ。どちらかというと、私はその文脈から外れていることがコンプレックスだった。幼い頃からずっと「さわちゃんは違うから」と、言われている気がする。ピンクも長い髪もラブアンドベリーも、恋愛だって私には無縁だった。正直、ウェディングドレスだって私は「着てはいけない」気がする(たぶん着ないと思う)。だから多分、ウェディングドレスを「着なきゃいけない」「ゆり」の話を書いたんだろうなあ、と今となっては思う。この作品の稽古のときだが、「結婚」と「子ども」の2つの概念に対して、プラスとマイナスどちら寄りの感情を持っているのか、についてみんなで話した。その時私はどちらに対しても誰より一番プラス寄りに印をつけた。驚かれた。だってこの脚本、私の話じゃないんだもんな。ゆりの苦悩と私の苦悩は同じ濃度であるけれど、別の味だ。
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審査員の方にいただいた言葉たちで1番骨身に染みた言葉を書きつけておくと、「人間としての強度を身につけて」だ。強くなります。
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福岡版と全国版で、演出を私から上野に変えたことに関しては、ここまで書いたような冗長な散文でなく、シンプルに説明することができる。全国という舞台において、私は【主観と感情】に、そして上野は【届ける手法】にそれぞれ特化することがベストだという結論を出したからだ。別に上野はできた人間じゃないし稽古場でムカついてしばき倒したくなることも多々あるけれど、あの作品は上野の演出を欠くことはできない。断言できる。私の主観と感情を真摯な理論で裏付けてくれた。「紙袋100枚買って」とか「服を破きたい」とか言われた時は意味がわからなさすぎて反抗したけど、今回の作品を経て、上野が演出においてやりたいことはとりあえず信じようと思うようになった。もっと褒めようと思えばいくらでも褒められるけど、救いようがないほどにつけあがるのでこの辺でやめておく。ちなみに、私は今後、演出をしないつもりでいる。脚本はもっと書くつもりだ。直情型かつ自信がない今の私には、演出という「職務」には向いてないと考えるようになった。全国版では脚本という形態で抽出した【主観と感情】を、演出の側面からアウトプットすべきだと思えば、演出をすることもあるかもしれない。その点において福岡版はあの形態がベストだったと言える。福岡版が好きだと言ってくれた人、ありがとう。またいつか。
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役者のみんなに会いたいなあと、結構な頻度で思う。ただ、私は役割がない状態で他人と向き合うことが苦手なので、もう会わなくてもいいかなとも思う。こんな残酷さ、欲しくなかったなあといつだって思っている。でも、福岡版の執筆時に個人的な恨みで雁字搦めになっていた私を救済したのは彼らとの稽古場だったし、全国版のリライトにあれだけの熱を込めさせたのも彼らへの愛だった、というのは真実。
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「少女」が始まるのは恋に夢見た時、「少女」が終わるのは恋を諦めた時であるような気がなんとなくしている。それは別に対象が異性でなくてもよく、同性(=友情・嫉妬)でも、自分(=ナルシシズム)でも良い。この世には「特別」なんてものはなく、人間たちはほぼ同じ形をした肉の塊だ。(私、もね)そんな世で人間を「選んで」みるという行為が非常に気になる。これからもずっと考えたい。
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近況報告、なんてクソつまらんことをやってみると、健全な生活に健全な精神が宿りつつあり反吐が出そうだ。外出自粛しようがリモートワークだろうが、常に私は私に閉じ込められている。それでも私の生活はいつも私を甘やかす。